「人情屋、華菱華太郎」
昭和62年正月、もう昭和という時代の命運が尽きようとしているのに誰も気づいていない、そんな時、昭和町の界隈では「人間演奏屋」なる商売の押し売りに似た仕事の被害者が続出していた。
ピンコーン。田中家の玄関のチャイムが鳴り、嫁の奈緒子が顔を出すとステテコ姿の中年男が玄関口に無理矢理入って来た。
「おうおう、俺は町の音楽家、人間演奏屋だぞう!」
「えっ、なんですか、それ?」
「俺がこの背中に背負っているレコードプレーヤーで、あんたの選んだ曲を聴かせてやるから、金を出せ!!!」
「そんな、結構です。」
「なんだと!!!刑務所帰りの俺様がわざわざ、足を運んで、疲れているあんたに音楽を聴かせてやろうという、この親心がわからんのかっっ!!!」
「ひぃぃぃ、払います、払います、おいくらですか?」
「末広がりの800円じゃあ!!!」
こうして、また曲を一曲聴かされて、800円も取られるという被害者が出たのでした。
そんな、ある日、男、華菱華太郎(はなびしはなたろう)がたまたま訪ねて来ていた、三味線屋の隣の民家に「人間演奏屋」がやってきた。
「おうおう!!!刑務所帰りの俺がわざわざ、足を運んで、疲れているあんたに音楽を聴かせてやろうという、この親心がわからんのかっっ!!!」
「ひぃぃぃぃ、いくらなんですか?」
そこへ、騒ぎを聞きつけた華太郎が足を運んできた。
「おじさん、元気な方ですねえ。」
「なんだ、お前は誰だ?」
「華菱華太郎と申します。よろしくお願いしますね。」
演奏屋はニヤリと笑みを浮かべて言った。
「丁度いい、あんたに一曲聴かせてやろうじゃないか!!!」
「そうですか、音楽は好きなんですよ。是非お願いします。」
「末広がりの800円じゃあ!!!」
「それはダメですよ!」
「なんだとぉ!!!」
「それは安い!!!」
演奏屋と民家の主婦は顔を見合わせた。主婦は言った。
「ただ黙って聴かされた上に800円は高くないですか?」
「おばさん、今時、お店に据え置いているだけのジュークボックスでさえも500円するご時世に、生身の人間が額に汗して機械を運んで、家まで来て下さって800円、それは安いですよ。おじさん、今日は1000円払いましょう。で、曲目は何がありますか?」
多少、面食らった演奏屋は鞄のシングルレコードを出して見せた。
「ふーん、そうですか。おじさんはお年寄りや演歌好きの方専門のジュークボックス屋さんなんですねえ。まあ、持ち運びも大変ですし、数がこれ位なのは仕方ないですねえ。でも、もう少し流行の物があった方が儲かるかもしれませんねえ。お、これは懐かしいですね。死んだうちの父親が、この村田英雄さんの「王将」が大好きだったんですよ。これをお願いします。」
人間演奏屋は黙って頷くと背中のポータブル・プレーヤーに「王将」をかけた。
華太郎は目を瞑って聴き入っていた。演奏屋は俯いて聴いていた。
曲が演奏し終わり、華太郎は2000円を出してこう言った。
「おじさん、いつもこんな風に家々をまわって人々の心にゆとりを与えるお仕事も誤解される事が多いでしょう。これは些少ですが、僕の気持ちです。受け取ってください。」
人間演奏屋は黙ったまま震えていた。そして小さな声を絞り出すように言った。
「あんたみたいなお人ははじめてや。この稼業やってて、そんな風に言って下さる人がいるなんて、思ってもみなかった。」
そう言って演奏屋は泣き崩れた。華太郎は黙って中年男の演奏屋の背中をさすっていた。
「わしは、なんか世の中を拗ねて生き方を間違っとった。あんたに会ってもう少し、人を信じて堅実に生きてみる気になったよ。」
「おじさん、頑張って下さい。」
いつか、また、つづく、かもしれない